「栽培できるかな?」「枯らすかも…」
「栽培しよう!」「育てよう」と前のめりの姿勢は、窮屈に難しく
感じて、考えてしまう”見方”なのかもしれません。
連想していくと…
- よし、栽培しよう!
- 栽培の仕方は?育て方は?なんだ?
- いつ、どこで、どのくらい、水をあたえるのか?
- いつ、芽がでるの?
- なかなか出て来ない、細い
- 忙しくなる…「あっ、忘れてた!..水…」
- やっぱり、私には…
っと、勝手な連想をしてしまいました。が、笑
自己都合栽培は、疲れる
「育てない」、「育つもの」。
イメージが先行し過ぎて、気づかれ。植物は、見えませんが命あるもの。
人間に例えるとわかりやすいです。子供でも。
パチッ、パチッとスイッチのように、白黒反応が得られません。
また、矯正もできません。笑
言葉が通じません。できることは、待つことと時に与えること。
見届ける、任せる、流れる
「わからない」
それで良いのだと思います。ただ、気にとめる。気にかける。
一緒に、生活をする。
水や空気、太陽環境を与えるのは、いつか?
自分なりに見てみて、「元気が無いな〜!」と感じたら
手を差し伸べる。なぜなのか、考えてみる。
その時々で、良いと思います。「型は、ない」
相手は、自然。程よい、距離感を持ってみてください。
新聞を読む際、近くで読まない感じ?!笑
全体像が、見えるように持ち、見通す感じ?
近くに寄りすぎない。
その中で、なぜだろうと問うことは、大切だと思います。
気づきは、次につながります。
栽培しない、育てない
見守り、気にかけて、時に手をかける(共に生活する)
人間と同じですね。
感謝