紫草の生きる姿勢
妙なご縁から、高貴な色、紫草と遭遇をしました。
「育てること」は、いつの間にか「自身の学び」に、
日々通じていることではないかと感じました。
生きものは、自然と育つのに、育てようとすることは、
実は育てる者の範疇に留めてしまう。
育つモノの可能性を無くしてしまうのではないか。
そう感じるようになりました。
育て方という自己満足?
「育たないことや育たないモノもある」
これを受け入れられるか。向き合うことができるのか。
なぜ、育たないのか。育てられないのか。
些細な ことば の違いですが、どこに主があるのか。
常に生きる姿勢、日々の表情の中に、無数のことばが隠れています。笑
まっ、難しくなることもなく
実は、とってもシンプルなことなんです。
自然に、生き物にとっての喜びや心地を思うときに、どう自身が感じるか。
- 暑そうや寒そう
- 水を求めてそう(乾燥)や弱々しく元気が無い(過度な水分)
- 顔色が薄い(暗い、光のない)
「しっかり、お世話したんだけど…」
それでも上手くいかないこともあります。
それが「自然に生きるものじゃないの?」っと、紫草は、自然の姿で年々表情を変えます。
例え、水の無い環境であったとしても生き抜くものもいれば
死に絶えるものもいます。
育て方に、白か黒かはなく。灰色を嗜み、困難さを乗り越えると
美しい姿を自然と魅せてくれます。上手くできています。ほんとに。
気づく気持ち
いつ?どこで、どうしたらいいの?
「白や黒ではない、日々の思いやり」、気持ちでしょうか。
植物もただボ〜ッと成長しているわけでもありません。
その時々を生き抜くために、子孫を残す為に力の限り
地に根をはり、日々に全力投球です。「それって、一体何の為?」
どこ、誰にって、組織でも無いからですね。笑
周囲に友もいるわけでもなく、ただただ独り。
ご縁という出逢いが、生み出す何かしらの意味があるのでしょうね。笑
そのときに、どのようにその事柄と向き合い、受けとめるか否か。
感性や心身の持ちようが、そこにあるのかもしれませんね。
育てることで、自分自身が育つ事につながっている。
それらを気づかせてくれる自然、紫草に、心から感謝。
それにしても今日の九州大分は、えらく暑い…